■PRANJ(政策海外ネットワーク)リポート
2004年12月2日配信「予防原則」という政策の波紋:欧州連合の新規化学物質規制
■ 西澤 真理子: シュテュットガルト大学社会学部環境社会学科研究員
「後悔先に立たず」か、それとも「規制の愚考」か。
欧州連合の最近の予防原則適用例は化学物質規制リーチ案である。未
知のリスクを防ぐという考え方(予防原則)に基づき、既存、新規と分
けられていた化学物質の登録・評価方法を統一し、約3万の化学物質の
共通のシステムを作り上げるという。化学物質の製造・輸入業者には物
質の化学安全評価の実施、化学物質を年間1万トン以上製造、輸入する
企業に登録の義務を課すという厳しいシステムである。
「リーチは現実性がなく、官僚のためのコスト、新規テストのコスト
を増やし、そして認可が出るまでの待ち時間を長くするだけだ」。ヨー
ロッパ最大経済のドイツの工業連盟は猛反発している。それに対しリー
チの生みの親、スウェーデン出身マーゴット・ヴォルストロムEU委員会
環境担当はこう反論している。
「工業会は先見の目を持たなければならない。消費者が化学物質の危
険についてもはや気にしなくなったり、安全な製品を買わなくなくなる
なんてことが想像できますか?」。
ヴォルストロム氏は高校を卒業後、オンブズマンとしてキャリアを始
め、25歳から社会党の国会議員として政治家のキャリアを積み、50歳の
今日、EU委員会の環境保護担当のヘッドまで上り詰めた。そのヴォルス
トロムの名をすっかり有名にしたのが「リーチ」である。
現場の声を無視したEU委員会の一人歩きにEU加盟国政府も黙っては
いなかった。イギリス、フランス、ドイツ政府は化学業界を支持。厳し
い安全管理を要求するリーチ案は、「逆工業化」であり、雇用と輸出へ
の脅威であると難色を示した。
激しい産業界、政府のロビー活動によりEU委員会はついに原案を修
正。昨年2003年、EU委員会は対象物質を3万種類から1万種類に、規
制の対象を1トンから10トン以上製造されている物質にすると発表した。
現在リーチ案の審議は欧州理事会、欧州議会に移っており、産業界、各
国政府、環境団体によるロビー活動が引き続き行われ、そのほう成果ま
での道のりは混沌としている。
リーチ案への化学業界の反発は予想された。しかし、ドイツ政府の反
対は「意外」である。ドイツは歴史的に予防原則の元祖で、国内環境法
にも予防原則の精神が生きている。「環境先進国」ドイツのイメージを
さらに強化しているのは、連立政権パートナーの緑の党出身の政治家が、
連邦環境相、消費者保護相として活躍しているからである。
なぜドイツ政府は反対したのか。
それにはドイツ国内事情がある。ドイツ化学産業は欧州最大、ドイツ
主要産業で、化学品は「世界の薬局」といわれるほどの外貨の稼ぎ手で
経済の牽引力である。ヨーロッパ最大の経済であるドイツは東西統合か
ら続く経済悪化からいまだに抜け出せず、現在の失業率は10%におよぶ。
2004年に入りようやくGDPの成長が多少上向いてきたが、悪化する雇用
問題が緩和しなければ現シュローダー連立政権は次期選挙で失脚される
といわれている。
欧州全体でも化学製品は欧州の3番目に大きい製造セクターで
(GDP2%)、世界最大の化学業界を誇る。欧州経済が停滞している中、こ
こ数年の生産量は平均2.7%(米0.7%、日本1.3%)の順調な成長を続け
ている。西欧の化学産業の中心国代表のシュローダー首相、ブレア首相、
シラク大統領にとって厳しい化学規制に支払うコストはあまりにも高い。
科学的に不確実なリスクに対する判断(予防原則)は科学的アセスメ
ントを超えた政治的、経済的、そしてイデオロギー的判断に多くを頼る
ため、判断を間違うと大変な結果を招く。社会に必要な健全な経済成長、
科学・技術の発展とのバランスはどうするのか。また、予防原則が政治
的に悪用されることをどう防ぐか。これらが予防原則の導入には十分な
注意が必要な根拠なのである。(筆者によるリーチ案の詳しい分析は岩
波書店発行「環境と公害」2004年10月号を参照ください。)
*ロンドン大学インペリアルカレッジ サイエンスコミュニケーション
学科PhD. 専門はリスク政策とリスクコミュニケーション
筆者連絡先 nishizawa_riskmanagement@hotmail.com
|