TMDの日米技術協力にみる冷戦の遺制
池上雅子 ストックホルム大学
日米両国間の軍事技術に関する研究開発協力は、1980年代初頭に当時のレーガン米大統領がSDI(戦略防衛構想)を打ち出し、西側同盟諸国に研究開発協力を呼びかけたのに対して日本側が応えたのが最初である。その後、両国は1980年代末に次期支援戦闘機(FS-X;現F-2)の共同開発で技術移転問題等をめぐり紛糾したものの、全般的には、漸次、軍事技術協力の強化に向かっている。この間、アメリカ側の方針は「兵器システムの精度・性能を高め、かつ開発生産コストを節約するうえで有効な日本の高度な民生汎用技術をいかに活用するか」で一貫しており、「高度技術の優位が国家安全保障の要」とするアメリカの技術安全保障政策と相まって、冷戦の終結という政治的な戦略的与件の根本的転換にも大きく影響されることなく続いている。
日米軍事技術協力は、1990年代のTMD(戦域ミサイル防衛)システムの研究開発協力に向けて新たな局面に入った。TMDは、1991年の湾岸戦争で比較的短距離の地域紛争型戦域ミサイルの脅威が浮上したのに伴って、いわばSDIプロジェクトを縮小再編成したものである。したがって、TMDはSDIと技術上・研究開発組織上は連関するものの、冷戦後の財政的制約と、地域紛争での現実的な使用可能性という点ではポスト冷戦型の兵器システムである。
冷戦後10年余りの間に実質で25%以上も軍事研究開発予算を削減したアメリカにとって、研究開発資金の分担と技術協力が可能な日本は貴重なパートナーである。アメリカは1993年の北朝鮮の日本海に向けたミサイル発射テストを契機に、日本側政府・防衛産業界に開発協力を要請し、以来、FS-X問題紛糾の後遺症などから慎重論の強い日本側に粘り強く働きかけてきた。
1998年の北朝鮮による「テポドン」発射を契機に、日本側はそれまでの慎重論から一気に研究開発協力方針に動き、TMD技術研究協力が決定した。また、SDI研究協力時に形成された日米防衛産業間の新たなネットワーク(従来より裾野が広く、民需中心のエレクトロニクス産業などが重要性を増す)がTMD研究協力への踏み台となった点も指摘できる。
そもそもTMDは核抑止の論理の通用しないイラク・北朝鮮などの「悪漢国家」(rogue
states)の脅威に対し、抑止の失敗を想定してデザインされたものだが、これは核兵器の精度向上・小型化と相まって、核兵器の実戦使用への敷居を低くする可能性も孕んでいる。
日本としては、TMDはアメリカにとっては海外派遣米軍の防衛という軍事介入の問題だが、日本にとっては本土防衛の問題であるという基本的なパーセプションの違いを認識し、「核の傘」効用の検証をはじめ、TMD配備のもたらしうるリスク(アジア周辺諸国の軍拡触発など)も十分に見通したうえで、冷戦以来の核戦力抑止の論理に代わる安全保障政策の構想・実現に努力すべきであろう。
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