同時多発テロ 

 安全保障の概念について」 (2001年12月7日転載)

愛知和男:防衛庁/環境庁元長官

9月11日のテロ事件依頼、安全保障というものの本質が問われることになっている
と思います。そもそも人間は命と財産を守る権利を有しているとされています。命と
はその本人の命はもとよりですが、動物としての本能にもとづく種を残すということ
も含んでいるます。財産とは金銭などの動産と不動産などを含む物質的財産と、文化
・伝統信条などと関連する価値観などの抽象的な財産をも含むと考えられます。
このように広く解釈される命と財産を守るために人間は歴史的にいろいろと工夫をし
て来ました。

人間ひとりひとりが自分で自らの命と財産を守るのが原則ですが、人間ひとりひとり
の力などというものは極めて微力であります。自分だけの力で自分の命と財産を守る
ことなどできる訳がなく、そこで人間は集団を作ってお互いに協力し合って各々の命
と財産を守ってゆくことにし最小の単位は家族です。家族から始まって親せき縁者、
つまり血のつながりを原点とする集団をつくり、この集団は種の保存という命を守る
ための本能にもとづいた集団である色彩が強いが、いずれにせよ人間ひとりひとりの
命と財産を守るために出来た集団であることには間違いないのです。

ところがこの血のつながりをもとにした集団は規模的に限界が出来てくるので、この
概念を発展させて民族という集団が形成され、民族を単位として各々の人間ひとりひ
とりの命と財産を守るための仕組みが形成されてゆくのです。

ところで血のつながりが人間の集団を形成する唯一の要因かというとそうではなく、
人間が生きていゆくうえで欠かすことの出来ないものとして地球上の土地というもの
の存在があります。ここに土地という縁で結ばれた人間集団が発生するのであり、こ
の集団は民族が大きな柱ではありますが、しかしひとつの民族だけがその土地に生息
するというのはほとんどなく一般的にはいくつかの民族が寄り集まって集団をつくる
事になります。これが、いわゆる国家と呼ばれるものの原点であると考えられます。
従って国家とはそこに所属する人間ひとりひとりの命と財産を守るために形成された
人間集団と定義づけられるのであろう。ところで安全保障の議論で無意識のうちに出
発点とされている概念は国家安全保障という概念であります。つまり国家の安全を保
障するためにどうするかという概念です。ところが前述のように、国家というものの
成り立ちの原点を考えれば、国家のためと云うのはもともとそこに所属するひとりひ
とりの人間のためでなければなりません。つまりまず、国家ありきではないのです。
いままでは国家安全保障はそこに所属する人間、つまり国民の安全保障でありました
が、今回のテロ事件をきっかけにしてこの原点が問われることになったのではないで
しょうか。いくら国家としての安全が保障されても、そこに所属する人間ひとりひと
りの命と財産の安全は必ずしも守られないのだということが、証明されてしまったの
です。今や国家とは何なのか、命と財産を守るという人間の原点に立った安全保障の
あり方の理論構築が必要になって来ているのであり、要するにひと口に云って国家安
全保障にかわって、もっと原点に立った人間安全保障の概念の構築であり、その目的
を達するための仕組みの構築であります。

別の云いかたをすれば、国家というものの概念の再検討であり。安全保障の議論の中
で何の疑問もなく大前提として来た国家というもの、そのもののあり方が問われて来
ている事態であると思います。

ところで30年ぶりでアメリカに長期滞在してみて、改めてつくづく感ずることは、
アメリカという国家の他民族性である。アメリカという国は建国の理念に賛同する者
であれば人種、民族を問わず誰でも受け入れてつくられて来た国家でありますが、人
間史上の大きな実験と云われ続けて来た人間にとっての大きな実験であるという実感
を改めて痛感しています。とにかく町にはあらゆる皮膚の色、顔立ち、容姿の人達が
あふれ、また人種としての出自と密接に関連を持つ宗教も混在しています。また宗教
にもとづく習慣も混在して食べものひとつ取ってみても、例えばユダヤ教の人達は
コーシャというラベルを貼られた食物しか食べない。つまりユダヤ教の教えにもとづ
いて加工されたものかどうかをユダヤ教の権威のある人が認めた食べものしか食べま
せん。

イスラム教の信者は豚を食べない。
祭日は各々の宗教によって異なっており、国家としての祝日と関係なく各々の民族の
祭日は祭日として生活に組み込まれています。或る白人がユダヤ教としての祭日に休
暇をとったので、はじめてその人がユダヤ人であることがわかったという話もよく聞
く話です。とにかく、アメリカという国家はありとあらゆる人種が集まって出来上
がっている国家なのでそうなると、国家としての模範を持ち続けるための独特な方策
が必要になって来ます。つまり民族国家ならば特に特別な方策を用いることなく、民
族としてのアイデンティティを強調するだけで国家としてのまとまりは保てるのであ
りますが、アメリカはそうはいきません。そこで、機会あるごとに国家のアイデン
ティティ、あるいはアメリカ国民としての意識を再確認する機会を作らなければ国家
としてのまとまりを維持できなくなります。日常生活でもわれわれ日本人から見ると
異様に感ずる程、国歌とか国旗に対する執着が見られるのです。

先日ワシントンにあるケネディ・センターのシンホニィーホールでのクラシックコン
サートに行った時は、指揮者が登場してやおら聴衆の方を向いて指揮棒をふり下ろ
し、それに合わせてオーケストラはアメリカ国歌を演奏し始め、聴衆はこれに合わせ
て全員起立して国歌を合唱したのです。それが終ってからおもむろに演奏が始まっ
た。アメリカ国民であることを再確認しているのであろう。

今度のテロ事件に当たってアメリカが異常なまでにアメリカを強調するのはいくつか
の理由が考えられますが、もしかするとアメリカ人は無意識に或いは本気になって世
界がアメリカの様になれば世界は大きく平和に近づくのではないか、世界をアメリカ
にしようと考えているのかもしれない。だとすればあまりに単純といえば単純な思い
込みであるかもしれないが、理想としてはその通りかもしれない。そうだとすればこ
の目的のためには「アメリカ」を強調することは逆効果ではないか。アメリカを強調
するのではなく、アメリカのような社会を目指そうではないかとアメリカが強調すれ
ばそれなりの説得力があるように思う。それはそれとして、国家安全保障に代る安全
保障の概念として人間安全保障の概念を導入してゆく具体的方策を構築しそれを世界
に提案してゆくという大構想を日本は打ち出してゆく時ではないだろうか。