市町村合併は,正解か?
| 市町村合併は、正解か? (2001年8月24日転載) 上山信一 :米国ジョージタウン大学政策大学院 教授 はじめに 最近、市町村合併の話題が、盛んだ。財政危機の折、規模の小さい零細市町村ではやっていけないから、合併して体力をつけさせようということらしい。総務省(旧自治省)が旗を振り、各都道府県庁が傘下の市町村のどことどこを合併させると良い、といったさまざまな調査、研究をやっている。あるいは、自民党が現在の3200強の数を1000にしよう、と言い出している。 当然、市町村の側には反対する向きが多い。首長も議員も数が減る。職員も減る。町の名前が消えるのはいやだ。隣村に吸収されたくない、などなど、理由はさまざまだが、関係者一同の意思がそろい、合併に向けて進んでいる事例はまだ少ない。 さて、この問題。皆さんは、どうお考えになるだろうか? タイプ@地域のエゴは、けしからん。財政危機の折、合併合理化は避けられない。ぜひ、推進するべきだ。 タイプA地域のことは、地域に任せるべき。上からの押し付けは、よくない。 タイプB推進役が国にしろ、各役場、都道府県にしろ、住民抜きの合併論議はけしからん。情報公開し、みんなで議論しよう 私は、上のどれでもない。そもそも、「合併」という救済手法そのものが、時代遅れだからだ。決めるまでの苦労の大きさも考えると、まったく「労多くして、得るものの多くない」経営改革手法である。また、国や県が全国の市町村に「合併」という定食メニューを提示する、という改革の方法、進めかた自体が、民主主義の基礎にある住民自治の原則から逸脱している。われわれは、この問題の深刻さに気がつくべきである。全国紙の論調は、国に同調している。だが、本件は、何が現実に意味のある経営手法であり、かつデモクラシーの本質にあっているか、という視点から考え直すべきである。 私は、いままで14年間、日本の大企業の経営改革をやってきた。合併も手掛けた。そこからいえることは、強者が弱者を吸収し、優れたノウハウを持ちこまない限り、合併は失敗するということだ。合併というのは、あの日産自動車の場合のように優れた経営スキルを弱者へ強制注入するということであり、決して規模が大きくなったからよくなる、というものではない。 規模が大きけりゃいいのなら、大阪府や神奈川県の危機はどう説明すればいいのだろうか。国鉄はむしろ、分割されたではないか。 さらに、省庁再編で霞ヶ関はよくなっただろうか?巨大化の弊害の方が目に付く場合も多い。 ことは、経営の効率化の問題だけにおわらない。私は現在、アメリカのメリーランド州に住んでいる。ここで痛感するのは、民主主義の基礎原理の根強さである。それは、自治体経営において、中央統制を極力廃し、多様なさまざまな制度、社会実験を尊重するという基本哲学に現れる。 今回は、そうした経験に照らした、問題提起である。わが国の識者の多くは、上のタイプ@−Bのどれかだろう。 だが、私はこういいたい。 (1)体力のない、市町村同士を合併させても、絶対に救済できない。かえって、問題を先送りするだけだ。 (2)都道府県組織の解体、自治体への税財源の移転の問題とセットでしか、市町村の再生はありえない (3)そもそも、全国一律に制度を見直すという手法では、答えは出ない。国が音頭を取って「全国一律に自治制度を変える」という発想自体が、もはや破綻しているのである。各市町村が、具体的な生き残り策を自分で考えるしかない (4)市町村の疲弊は、確かに問題だ。だが、総務省が全国を一元的に救済しようと考える限り、答えはない。これは、大蔵省が護送船団体制を維持する限り、個々の金融機関の再生がありえないのと、同じである (5)市町村が破綻しても、住民の暮らしは守れる。サッチャーは、かつて荒廃した公立学校を父兄の申請さえあれば、国の直轄に転換する制度を作り、一時的に救済した。市町村という組織、会社の運命と、住民の運命は分けて考える。 破綻した場合には、むしろ総務省は積極介入するべきで、それまでは、一切関与すべきではない。 以下では、さらに詳しく、この問題を考えたい。 論点@機関委任事務の廃止や昨今の市町村合併など、昨今の一連の自治制度改革は、そもそも全国一律の制度を維持する、という前提に立つ限り、意図せずして国が設計した定食メニューを自治体に押し付けるという結果を招く。 その結果、 国と自治体は対等、、というキャッチフレーズも色あせる。地方のことは地方に任せる、という改革の趣旨に沿って考えれば、合併問題は、国が音頭を採るべきテーマではない。 また、機関委任事務の執行体制などは、本来は、各自治体と国の間でどうするかを、個々に協議すべきテーマである。その結果、地域の実情を反映して、答えが少しずつ違ってもよいのではないか。 論点A「日本は連邦国家ではない。だから制度は、すべて全国一律だ」という論理がある。 多くの日本人がそう信じているが、世界の常識からは、ずれている。現に日本でも、東京都と区市町村の関係は、よそとは違うし、沖縄や北海道だけのためのさまざまな振興策がある。米国ではもとより、英国でも地域によっては、県に相当する機関がなかったり、制度は地域によって多様である。そもそも、いくら日本が単一民族国家だといっても、これだけ巨大なシステムを単一の制度でもはや運用できない。また、成熟経というものは、多様性が競争と活力の源泉なのである。一律定食メニューでは経済もデフレを招く。そして企業でも、コンピュータの世界と同様のダウンサイジングが起きている。中央集権の一律処理方式から個別の分散処理方式への進化は、21世紀の成熟経済社会の普遍原理である。 論点B市町村合併は、目的を経営改善におくならば、手法としてそもそも妥当かどうか、大いに疑問だ。衰弱してだめになった組織同士は、単に足してもよくならない。銀行や素材産業の教訓に学ぶべきである。経営改革は組織論からではなく、事業の見直しから始める。個々の事業を見ていけば、病院は3村で共同経営、バス事業は民間に委託、福祉は広域の7市町村で共同事業体を作る、といったその地域にあった経営体制が描けるはずである。もちろん、その結果、丸ごと5つの市町村を合併させるといった解もあっていい。 論点Cいまの市町村に任せていては経営改革はなかなか進まない、という意見には一理ある。しかし、だからといって鳴り物入りで全国一律に合併運動を進めるというのは、拙速だ。そもそも、国が音頭をとろうとするから制度改革という画一手法に陥る。国は個々の自治体経営の中身に関与できない。できることといえばせいぜい制度、組織の見直しになってしまう。この事情はわかるが、国の都合で、経営改革の手法が限定されてしまうのは大問題だ。 また、そもそも、いつまで自治体の護送船団方式を維持するのか。維持する限りは、銀行と同じく、各組織に公的資金を逐次投入しつつ,縮小均衡、つまり緩慢なる衰退を続けていくことになる。市町村の経営危機問題は、「国の指導のもとに、組織や制度の見直しを全国一律に進める」という大前提を、あえて捨てない限り、悲惨な結果に終わるだろう。 論点Dなお、組織、制度の見直しによって経営効率を上げる、というのならば、市町村だけでなく都道府県と国(旧自治省)の機能と管轄範囲もあわせて見直すべきである。たとえば、道路の管理は、広大な岩手県なら県単位でいいかもしれない。だが狭い平野部の県ではどうか?事業ごとにみていけば、都道府県という単位そのものの合理性も問われる。 その先にある議論は、道州制かもしれないが、これとて、九州には最適かもしれないが、よそではどうかわからない。また、業務によっては逆に、全国一律で統制したほうがいいものもある。例えば、米国で今、問題になっているのが遊園地の遊具の安全規制である。州によっては安全規制がまったくない。連邦政府が関与すべきだという議論が体勢を占めている。 おわりに 現代における自治体経営は、全国一律のモデルで、また制度・組織の手直しだけで解けるような問題ではない。まずは、個々の自治体が、経営という視点で、個々の事業に着目してクリエーティブに解決するしかないのである。 その上であればもちろん、合併もあってよい。安易な数合わせ、看板の付け替えだけは、やめよう。 親(国)の都合で決めた結婚(合併)は、必ず子供の親への依存(国へのもたれかかり)の口実を作り出し、親子ともに自立できない。一見、冷たいようでいて、子(自治体)は突き放す。そこから、親子(国と自治体)ともに、成り立つ活路が、見えてくる。
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