集団的自衛権の『経済的』影響

集団的自衛権の『経済的』影響」 (2001年6月16日投稿)

河内 祐典(財務省主計局課長補佐)

 新政権下の国会において、我が国の集団的自衛権行使に関する議論が盛んに行われている。我が国に何らかの事態が起こった場合に、米国は我が国を守るために戦うが、我が国は戦闘地域から離れた安全な場所でのみ協力する、という現在の「片務的な」協力体制を見直し、同盟国としての相応の役割を果たそう、という議論である。昨年10月に米国防大学国家戦略研究所(INSS)が発表した特別報告(いわゆる「アーミテージ・レポート」)においては、本件は基本的に日本国内で決めるべきことであると前置きしつつも、日本が集団的自衛権に関する制約を取り除き、対等なパートナーとしてより大きな貢献への意思を示すならそれは歓迎すべきことだとの考え方を明らかにしている。同レポートも今般の議論に多大な影響を与えているところである。

 集団的自衛権の概念が想定する範囲は、それを論じる者によって異なる。具体的には、現在議論されているものも含め、大きく三つに分類されよう。第一は、活動地域を我が国周辺地域に限り、日米安保体制の枠組みの中で、我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態(周辺事態)における米軍への協力に限って集団的自衛権の行使を認めるという考え方である。具体的には、97年に見直しが行われた日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の枠組みの中で、周辺事態において我が国が行う捜索救助活動や後方地域支援等は戦闘地域とは一線を画される場合においてのみ実施し得るとされているものにつき、我が国がもう一歩踏み込んだ活動を行うことができるようにすべしとの考え方である。現時点で多く見られるのは、こうした「限定的な」集団的自衛権の行使を前提にした議論である。

第二は、日米が完全に「対等な」権利義務関係に立つべく、集団的自衛権を行使するという考え方である。現在の日米安保条約においては、我が国が攻撃を受けた場合には米国は我が国を防衛するが、逆に米国本土が攻撃を受けた場合に我が国は米国を防衛する義務はない。その帰結として、我が国は米軍に施設・区域を提供している。いわば「物と人との協力」であるが、これを「人と人との協力」、日米が等しく相手国の防衛義務を果たす枠組みとすべしとの考え方である。この考え方に基づく日米間での「対等な」集団的自衛権の究極の姿は、米国本土防衛のために出動する自衛隊(更に言えば、米国本土に駐留する「在日米軍」ならぬ「在米自衛隊」)となろうが、現時点ではこのような議論は見受けられず、フィクションに近い仮説である。

第三は、日米二国間の安保体制の枠組みにとどまらない、よりグローバルな活動に際して、集団的自衛権の制約を緩和し、我が国の国際貢献の範囲を広げるべし、との議論である。例えば、国連平和維持活動(PKO)における我が国の活動である。現在、我が国が行うPKO活動には、PKO平和5原則の遵守、本体業務への参加の凍結といった種々の制約が課されていることは広く知られているところであるが、こうした我が国固有の制約を取り除き、各国と同様の貢献がなされるようにすることが必要ではないか、との議論である。

集団的自衛権の問題は、我が国の安全保障政策の大きな転換を伴う極めて重要な問題であることは言うまでもない。したがって、我が国が集団的自衛権を行使することが適当か否か、仮に行使する場合には第一、第二、第三のどの範囲での行使となるべきなのか、といった点については、歴史的側面、近隣諸国との関係に及ぼす影響等も含めた幅広い観点から、慎重な議論が必要である。そして、その際には、こうした安保政策の転換がもたらす経済的コスト(及びベネフィット)についても、十分に検証することが必要であろう。簡単に言えば、「集団的自衛権の行使は納税者のサイフにどれだけ響くのか」という観点である。

例えば、集団的自衛権の行使が、周辺事態における対米協力という「限定的」なものとなる場合、我が国の安全保障上の経済的負担はどうなるのか。現在と余り変わらない水準に止まるか、或いは何らかの増減をもたらすのであろうか。また、集団的自衛権の行使が「限定的」なものから「対等な」もの、あるいは「グローバルな」ものへと拡大した場合にはどうか。この場合には、我が国の防衛力整備のための費用や、在日米軍駐留経費負担などに何らかの変化をもたらすことになるかもしれない。また、在日米軍の駐留規模の見直し、ひいては在日米軍基地の整理・縮小といった議論も(その是非は別として)必ず生じてくるであろう。更に、現在日米間で共同研究を進めているTMD(戦域ミサイル防衛)構想への我が国の関与のあり方にも影響を及ぼす可能性がある(実際にアーミテージ・レポートはこの点を示唆している)。

更に長期的な観点からみれば、我が国の安全保障政策の転換は、現在世界第一位の供与実績を持つODA等の対外援助や、同じく世界第二位の拠出実績を持つ国連における我が国の役割といった、「国際貢献」のあり方、すなわち「物による貢献」と「人による貢献」のバランス(現在はかなり前者に軸足を置いているが)にも、何らかの変化をもたらす可能性がある。しかし、こうした要素を比較衡量した上での検証はかなり複雑かつ困難であり、現時点では確たるものは得られていない。

安全保障政策は国の根幹をなすものであり、金銭面における損得のみで考えられるべきものではないことは当然である。また、国内における議論はまだ始まったばかりであり、結論を急ぐべき性質のものでもない。いずれにせよ、案外見落とされがちな「経済的負担」といった点を含めた上で諸論点を総合的に検証しつつ、広い視野の下で、我が国が国際社会において果たすべき役割を模索することは極めて重要である。

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河内さんへ

渡部 恒雄: CSIS(戦略国際問題研究所・日本部)主任研究員

河内さんの集団的自衛権行使のための、経済的影響の考察は、実に職業柄を反映した興味深い意見ですね。私のコスト計算による集団的自衛権行使の必要性と、集団的自衛権を含め憲法9条をどう扱うべきかという私の考え方を述べさせてください。

まず私の大雑把なコスト計算の中では、日本の安保のコストを最小限に押さえているのが、日米安保体制だという理解です。アメリカの核の傘に入っているおかげで、自国の安全を確保するために、核兵器を装備せずに済んでいますし、同じように大きな前方展開能力、攻撃能力を作らなくても済んでいます。

今、日米の安保専門家が、ともに懸念していることは、例えば朝鮮半島有事の際に、日本が集団的自衛権行使が憲法に抵触するという理由で、米軍に適切に協力せず、アメリカ兵に犠牲がでた場合のアメリカの一般世論の反応です。おそらく、日本に対して大きな批判が起こり、日米安保条約を即刻破棄せよという政治的圧力を作り出し、同盟が危機に陥ります。もし、日米安保条約が解消された場合、日本が米軍に頼らずに自衛に足るだけの装備をすることは、かなり巨額な防衛費を要求します。

しかも、そのような日本の動きは、韓国、中国、ロシアなどの周辺諸国に警戒を与え、軍拡競争の引き金を引き、日本の防衛支出にさらなる負担がかかります。さらに、アメリカとの関係悪化は安保費用の支出の面を増やすだけでなく、アメリカへの市場へのアクセスの制限、国際信用力の低下など、日本の収入を減らす圧力ともなります。したがって、現時点では、集団的自衛権行使をするしないのコスト計算においては、今後の日本の対米協力が「限定的」「対等」「グローバル」のどれであれ、集団的自衛権を行使するという選択が、潜在的な日本の安保コストを最小限にしていくと思います。

現時点で、日米が安保協力の上で、憲法解釈の制限を取り除いて、実際に行おうとしていることは、河内さんの第一分類の日本の周辺地域における米軍の作戦への物質的な支援と、捜索救助活動や日本国内の米軍施設の警備などです。それからアメリカは、第三分類の日本の国連PKOへの積極的参加も期待してます。

しかし、重要なものは、特に第一分類です。これは、ある部分は集団的自衛権に抵触する可能性もあるため、あらかじめその制限を取り除いておきたいと、日米ともに考えています。そもそも、「日本は集団的自衛権を保持するが行使しない」という憲法解釈は、1955年体制の保革対立の政治の中での、政治的な妥協の産物としてできたもので、現実の政策的な考え方から導きだされたものではありません。しかも、この政治的な妥協の産物も、冷戦下においては、日米安保協力はソ連からの日本に対する直接の侵攻に対処することが、最も起こりうるシナリオであり、これは集団的自衛権ではなく、個別的自衛権で対処できるので、実際の安保政策にはそれほど影響がなかったわけです。

ところが、冷戦が終わり、現在の日本の対米安保協力の対象が、ソ連の日本侵攻から、朝鮮半島や台湾海峡の有事ということになったため、冷戦下での政治的妥協が、冷戦後では現実的な障害となったわけです。本当は、政治的妥協をつくりだした自民党・社会党の保革の対立が終わったわけですから、この時代遅れの憲法解釈は一刻もはやく、現在の国際環境に合わせたものに変える必要があるわけです。ところが、現実には、やっと小泉内閣で取り組まれようとしています。なぜここまで、遅れてきたのでしょうか?

現在でも、集団的自衛権行使に反対の人達は、「アメリカの戦争にまきこまれるべきではない」などといった政治的、感情的なコメントや、「軍事ではなく外交で解決を」といった現実ばなれしたことを言うだけで、集団的自衛権を行使しない場合の、日本の安全を保障する具体的な政策オプションを提示していないのです。かたや集団的自衛権行使派は、現実的な政策論からアプローチが主です。本来ならば、政策論対政策論で、政策が決まっていく問題が、極めて政治化した分野となり、空想論対現実論なので、意見が噛み合いません。 本来の現実の日本の損得が、河内さんの指摘する費用を含めて、実際には全く評価されていないのです。

ところで、現在までのところ、日米の政府は、ガイドライン以降、具体的な日米協力事項を一つづつ検討し、それを憲法解釈に抵触しないようにして協力関係を積み上げてきました。これを漸進的(incremental)アプローチといいます。これは日本の憲法解釈の変更が、政治的には時間がかかるという前提の次善の策でした。

しかし、私自身の考えは、今後の日本は、安全保障政策形成から、憲法解釈の制限を取り除いていくべきと考えています。理想的には、日本国民の安全保障のための最良の政策を考え、もし、そこに憲法解釈の制限があれば、憲法解釈自体を変えていくべきだと考えます。しかも、憲法解釈を現実の安保政策の歯止めとしている現在のような状態では、複数の政策オプションを提示して選択するどころではありません。憲法の歯止めは、もっと緩くしておき(私はタカ派ではありませんので、戦争放棄の条項は残しておくべきだとは思います。)、ただし、政策オプションの選択の中で、周辺諸国の反応や経済的コストなどを考慮しながら、決めていくのが、いわゆる普通の国の政策だと思います。このような状態で、理性的で適切な安保条約を形成していくことができれば、短期的には周辺からも警戒されるでしょうが、長期的には、日本はより信用される国家となるでしょう。

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渡部様

河内 祐典(財務省主計局課長補佐)

我が国の防衛のあり方や憲法改正等について、タブー視することなく、このように活発な議論が出来るようになったのは、ごく最近のことだと思います。その背景には、湾岸戦争、核査察問題やテポドン発射、不審船といった北朝鮮事案、中台危機、更には国内における阪神淡路大震災やオウム事件等の発生により、国民の間で安全保障・危機管理に関する意識が急速に高まったということがあるのだと思います。ほんの10年前には、「自衛隊の海外派遣は許さない」といったスローガンの下、国連平和協力法案が廃案となったことを考えれば、隔世の感があると言っても過言ではないでしょう。

言い換えれば、最近に至るまで、我が国は「自分の国をいかにして守るか」といった問題に正面から向き合うことなく、目を背けてきたと言うことができると思います。そして、それは結果として、渡部さんが指摘されるとおり、我が国を防衛するために必要な経済的負担を最小限に抑えることに成功し、本来ならそこに配分することもあり得た財政資源を他の分野に配分することで経済成長を遂げることができたという効能もあったのだと思います。自衛隊が世界有数の装備を備えるに至ったと言われる現在においても、日米安保体制が我が国の防衛に関する経済的負担を「安く上げている」という事実は厳然として存在しているのかもしれません。例えば2000年度防衛白書には「一人当たりの国防費」という統計がありますが、米国952ドル、英国569ドル、ドイツ283ドル、フランス469ドルに対し、我が国は237ドルとなっています。

但し、これはあくまで経済的負担の観点のみから計った場合であって、それ以外の側面で我が国が得てきたもの、失ってきたものも多いのだと思います。例えば、「他国への侵略意思を持たない平和国家」というイメージの下、各地で発生している武力紛争や核実験、武器輸出等に対して毅然たる態度をとれる立場を我が国が得てきていることは事実です。他方で、「カネは出すが血は流さない経済大国」のイメージも引きずっているが故に、国際社会のポリティカルな局面において確固たるプレゼンスを示す機会を失っているという側面もあるでしょうし、米軍施設・区域が集中している地域の住民の精神的負担等も、現行の日米安保体制の「負」の部分と言うことができるでしょう。こうした側面は金銭に換算することが極めて困難ですが、見逃してはならない点だと思います。そして、これらを総合勘案しつつ、今後の我が国の安全保障政策のあり方を考えていくことが重要であろうと思います。

なお、現在巷で行われている議論の中で私が気になっているものが一つあります。それは、「集団的自衛権に関する現行の憲法解釈はけしからん」という文脈で、内閣法制局を槍玉に挙げている議論です。

「我が国は国際法上、個別的自衛権と集団的自衛権の双方を有するが、後者の行使は憲法上許されない」という解釈は、昭和56年に政府統一見解として示されています。また、それ以前にも、政府は同旨の発言を国会等の場で行ってきています。私はここで、この解釈が妥当か否か、現在の時勢に照らして乖離しているか否かを論ずるつもりはありません。ただ留意すべきは、この解釈は、憲法第9条の文言から導き出される法理論的な観点と、当時の国情・社会背景といった政治的な観点とを勘案した上での、行政府としてのギリギリの結論だったのではないかということです。

そしてより重要なのは、この解釈がなされた当時においては、国民の多くはその内容に異論を唱えなかったか、もしくは無関心であったかのどちらかであったであろうということです。当時からつい最近まで積極的ないし消極的に世論の「支持」を得ていた解釈について、21世紀に入った現在、改めて考えてみると時勢に即していないかもしれないということをもって、「だから内閣法制局がけしからんのだ」という議論を展開することは、フェアではないのではないかと思います。

97年のガイドライン見直し以降、日米防衛協力を効果的かつ円滑に進めるための枠組みを構築する作業(渡部さんが述べられているincremental approach)に際しては、憲法上の制約と日米協力のフィージビリティとの間で、緻密な調整が行われてきました。そうした作業を経て思うのは、国家の根幹をなす安全保障政策に関しての、「行政府としての」継続性というものはやはり重要なのだろうということです。行政府の一部局に過ぎない内閣法制局がある日突然憲法解釈を変更し、「今日から我が国は集団的自衛権も行使して良いのですよ」と宣言する、といった国家の方が私はよほど怖い気がします。

その意味で、仮にこのような重要な点において我が国の安保政策を転換するのであれば、それは行政部内の一作業においてなされるべきものではなく、国民の信託を受けている立法府の関与が不可欠であろうと考えます。現在、集団的自衛権を行使する場合の手続としては、@内閣法制局の解釈変更のみで可、A国会決議が必要、B憲法の条文改正が必要、といったオプションが議論されているようですが、私は少なくともAの手続は必要であると考えます。

本件については幅広い視野での議論を期待したい旨、先に述べたところですが、いずれにせよ、総理大臣自らが集団的自衛権や靖国参拝といった議論を惹起している現状について、「右傾化」「軍国主義への回帰」といった短絡的なレッテルを貼ることなく、冷静な議論を進めることが出来るほどに我が国の民意が成熟してきたということなのであれば、それは掛け値なしに喜ばしいことだと思います。

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