PRANJワークショップ記録 その2
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「9月11日以後の日本の課題:民主国家の治安,防衛,安保政策」 CSIS 戦略国際問題研究所 日本部 主任研究員 渡部恒雄氏, 九州大学 法学部 助教授 豊永郁子氏 2001年11月15日 CSIS戦略国際問題研究所 (ワシントンDC) |
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豊永: 私は1年半前までDCに住んでいたのですけれども、PRANJ発足時には居合わせず、日本から名前だけでも参加させて頂いて、皆さんの活躍の様子を感嘆しながら拝見しておりました。おととい講演の機会を頂いてたまたまこちらに来たのですが、今日このようなワークショップがあるということで、飛び入りのような形で参加させて頂きました。日本から来たということもありますので、日本で今回の同時多発テロの問題がどのように捉えられているかということについて、あくまで私のレンズを通しての観察ですけれども若干述べさせて頂きながら、渡部さんの議論と交錯するような論点を提供させて頂きたいと思っております。 |
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サンプルは限られていますが、日本では一番大きいとされている選挙情報サイトのオンライン世論調査の結果を持って来ました。これを見ますと、インターネットユーザーしかサンプルにならないわけですからある程度のバイアスはかかっているとしても、アメリカの報復攻撃について「支持する」が約50%、「支持しない」が44%と、「支持する」が若干多いですけれども、世論がきれいに二分されている状況が分かります。同じように自衛隊派遣についても、賛成が51%、反対が43%と似たようなデータが出てきています。皆さんはアメリカにいらっしゃるので、アメリカ側のテロリズムに対する反応に関しては身をもって体験なさっているわけですが、日本で出てきている、アメリカでは想像ができないような反応の典型例としてどういうものがあるのかということについてまずお話します。 一つには、これはアメリカでも見られる態度なのではないかと思うのですが、アメリカはあのようなテロ攻撃を受けるに値する、”you deserve it”(自業自得)という見方は強いですね。新聞の論調などでも強く見られて私はぎょっとしてしまうのですが、悪いことは悪い、いいことはいいということでは必ずしもなくて、「積年の悪行がたたってこういう結果を招いたのだ」という論調はかなりあるのです。さらに、「ブッシュ大統領になってパレスチナ問題を軽視するようになったのがいけないのだ」というかなり性急な議論まで出てくる状態で、ここまで物事を相対主義的な見方で見てしまってよいのだろうかと思わせるような論調というのがかなり強かった。そしてそのような、「アメリカはあのような攻撃を受けるに値しているのだ」という論調の背後には、現在の経済状況の悪さ等々から来ているある種のルサンチマンのようなものも反映されているようでして、アメリカナイゼーション、グローバリゼーションへのフラストレーションというものが投影されているという印象も受けました。グローバリゼーションとアメリカナイゼーションは本来区別されなければならないのですけれども、日本ではほとんど同じものとして論じられていて、グローバリゼーションでなくアメリカナイゼーション、アメリカが悪い、と。現状を変えたくない勢力は、「日本はアメリカのようになってもいいのか」というようなお決まりのレトリックを使うことが時々見られるわけです。というようなことで、最近の状況の悪さを受けてのルサンチマン、反米感情のようなものが投影されている態度でもあるように見受けられます。これが一つ目の典型的な反応です。 二つ目は、一つ目と関係しているのですけれども、やはり対岸の火事であるという見方は強いようです。どういう発言なり態度にこれが表れてくるかというと、日本人で巻き込まれてしまった方はたくさんいるわけですよね。今、私は「巻き込まれた」という言葉を使いましたが、まさに「事故に巻き込まれてしまった」運が悪い気の毒な方々,という発想で捉えられている部分が非常に強いような気がしました。つまり、「本来であれば我々は全く関係ないのだけれども、たまたま居合わせてしまったがためにアメリカをターゲットにした攻撃の対象になってしまった」と。これはテロリズムの性格が分かっていない、あまりにも極楽トンボな見方ではないかと思いますし、リアリティの感覚に欠いているのではないかという感じがします。 今申し上げた2つの反応は、「アメリカの報復に対して距離を置こう」という論調の背後にある姿勢だと思うのですが、3つ目として、「特に日本政府の対応について物申したい」という議論の背後にある反応が挙げられます。もちろん、1つ目2つ目の反応の結果として日本政府の対応に反対する、自衛隊派遣は良くない等々という議論の筋道もあるのですが、もう一つ見受けられるのは、やはり日本の外交政策形成者に対する非常に強い不信感です。もっと上手く対応する方法、もっと上手い日本の役割の見つけ方があるのではないかというような議論を時々耳にします。「政府の対応は性急過ぎて、しかも今まで長い間彼らがそれぞれ持ってきたアジェンダに引きずられすぎているのではないか、だから自衛隊も本当にテロリズムが悪いと思うから派遣するのか、それともこれを好機として様々なことを成し遂げたいから派遣するのか分からない」、そういった点について不信感がわだかまっている部分があるように感じます。最近の経済情勢の悪さであるとか政治的な混乱を受けて、一般に政策形成者、官僚、政治家、エリートへの不信感がかなり強く育ってきているような気がするのですけれども、やはりその一端を反映した反応でしょう。以上この3つの態度・反応が各所に表れてきているという印象を持っています。 本来もう少し注目されるべきこととしてここで言及したいのは、今回のテロリズムの結果、一体我々がどういう新しいリアリティの中に居るとの認識を迫られるかということです。まず国家レベルで、実はあまり議論されないことですけれども、アメリカ、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国がかなり足並みを揃えていることは非常に画期的なことではないかと思います。そのような国家の連合体に対置されているのは、テロリズムの国際的ネットワークです。最近流行りの「市民社会論」というものをご存知でしょうか。国家と個人、或いは市場の間にあるNGOやボランティア団体といった、時に国家の敷居を超えつつ活動してサービスを供給するグループに注目しようという議論が政治学の学会等でもてはやされているのです。けれど、市民社会には負の側面があって、例えばローカルなレベルではギャング集団であったり、国際的ネットワークに注目すればまさにテロリスト集団がこれに当たるわけです。そうすると、国家対市民社会の対立枠組みにおいて、普段は国家が悪者とされるのですけれども、今回は違う形の対立構造が我々の前に明らかにされている、ということに注目してしかるべきなのではないでしょうか。つまり、我々がここの所非常にもてはやしてきた「市民社会」なるものの負の側面を直視するべき時にあるのではないかということです。それに対して、国家レベルではかつてないほどの協調・連合というものが出現しているということは非常に画期的なこととして評価されるべきなのではないかと思います。このような全体的な枠組みをどう評価するかということはみなさん一人一人に委ねさせて頂きます。 ロジックの中で、日本から見ていて不思議な響きを持っていたのは、「これはアメリカのフリーダム(自由)に対する挑戦である、アメリカのフリーダムを彼らは奪おうとしている」というものです。これが出てきたのはそれ程抽象的文脈の中ではなく、そこで意味されている「アメリカのフリーダム」というのは移動の自由だったりするわけです。例えば飛行機に乗れない、「これはアメリカの自由に対する大きな侵害だ、安全に移動できないとは何たることだ」と。突き詰めて考えてみると、つまりアメリカの文脈ではセキュリティとフリーダムというものが非常にオーバーラップしているということです。これは日本人にはない感覚だと思います。日本人は自由と安全というものを二項対立的な図式で捉えがちです。 そうすると、ある状況では「安全の方が重要だから自由を否定する」という話になってしまう。だから、アングロ・アメリカンの世界ではこの二つは一つの価値の別の側面であって、どちらかを立てるというものではなく上手くバランスを取ることが重要になってくるのだ、ということが日本人の目からは理解されにくい。渡部さんが「答えのない」という言葉を使われましたけれども、まさにどちらを立てるかは答えがなくて、バランスを取ることが必要な問題として捉えられるべきだという点には、日本から見た時に違和感を覚えるのではないかと感じました。 他にも色々とお伝えしたいことがあるのですけれども、あとは皆さんとのやりとりの過程でお話させて頂きます。 |
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| Q1. 戦後の日本では、自由とか民主主義を語るグループとセキュリティを語るグループとが2つに分かれてしまって、それらが交流することなく来てしまったということだったのですが、私は自由と民主主義を語るグループが2つに分かれていて、セキュリティを語る時にいつもその対立の軸にすぽっと入ってしまってその2つの軸が交流しないと言う方が正しいのではないかと思います。そして渡部さんが提唱するように、政策ネットワーク的なものを日本で作れば客観的な分析をその間に通して問題が解決するかと言えばそうではなくて、もう一つ違う次元で、日本の民主主義を平等とくっつけるのかそれとも社会に、或いは個人の自由というものにくっつけるのかということを提案するようなことも必要ではないかと思うのです。抽象的な話ですが、そういう問題に直面したとしたら、これから日本が民主主義と何をくっつけていくべきだという議論を提唱されますか。 | |
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これからどうしたらいいのかということについては、政権交代がやはり基本だというふうには思いますが、それで解決する問題ではもちろんなくて、その後はどうしたらいいかということに関しては、色々な人が色々なことを考えて色々な所で発言できる環境が必要だと思いますし、教育は大事ですよね。政治家の教育というか、本当は政治家の発想がそうでなくてはならないですから。けれどそこは難しくて、今の国会論議では複雑に色々な要素を入れてしまうと有権者に訴えないし、野党はすごく苦労していると思うのです。民主党に関しては、「反対ばかりしてはだめ」という現実的な意見が一方にあって、現実的に対応しようとすれば「野党らしさがない」と言われたり、これについては以前民主党の岡田克也政調会長がここでお話されましたよね。そういう意味では、ある程度同じ政治家が、複雑な政策議論と野党的反対の両方やってバランスを取らなければならない部分もあるような気がします。だから、政権交代が重要と考えていますが、それ以外の部分では、やはり周辺でものを語るメディアや学者が議論を提示することが必要ではないかと思います。例えば今のPRANJでのこのようなやり取りで議論が広がっていくと前に進みますよね。こういう話がもう少しできればな、という気がします。 Q2. おっしゃられたように、政策コミュニティを作っただけで良くなるという話ではないと思うのですが、この政策コミュニティを作るということに関して日本では色々な問題が絡み合っていると思うのです。例えば終身雇用だとスペシャリストが育たないので政策を作る者は育たないし、それは省庁でも同じであるし、政治だけの問題ではなくて経済や教育に渡る問題ではないかと思います。 豊永: 政治だけの問題でないというのはおっしゃる通りです。例えば、構造改革の問題に関して「痛みを伴う改革」と言いますけれども、痛みをもたらしてどういう支障が生じるのかというと、一番リストラされやすいのは40代後半・50代の方です。彼らは一番教育費のかかる時期の大黒柱なのです。その配偶者が専業主婦で子供が1人、2人、3人いたりして大学に行っているような場合には、その人が倒れるともう家族全員が倒れてしまうわけですよね。だからと言って彼らに非常に高いサラリーを払っていると構造改革が進まなくなってしまう。そうすると、家族そのもののあり方自体をある意味で変えていく必要があるのではないかという問題もあります。例えば片方だけが働いていると、その人が倒れた時のリスクが大きくなるが、2人が働いていれば片方が失職しても何とか生活はしていけるかもしれない、など。或いは子供の教育費をもう少し社会化して、親が払うのでなく国が払うなり何なりした方がいいとか、或いは子供に自分で稼がせるとか。家族のあり方自体も変えていかないと構造改革は実現しないのではないか、ものすごく抜本的な変化が求められている、と最近考えます。80年代にイギリスで大きな政治風景の変化をもたらした、マーガレット・サッチャーによるサッチャリズムの改革というものがありましたが、これは社会システムを根底からひっくり返すものでは必ずしもなかったわけです。けれど日本の場合には、家族のあり方にも立ち入るような改革が求められて、それがなければ構造改革がそもそも成り立ち得ないのかもしれない。そうだとすると、非常に大きな課題を我々は抱えているということになります。そうするともちろん抵抗勢力が色々な方面から出てくるわけです。 渡部: この問題に関して本当に大事なことは、国・政府というのは常に答えが求められるということです。ですから、もちろん拡散して色々な議論をすることが大事だしそれが厚みにもなるのですが、どこかで決めなくてはならない。そしてその時に優先課題をどう決めるかということも非常に大事です。さっき豊永さんが日本国内のテロに対する反応についてお話されました。私自身もJMMに寄稿していて色々な反応や批判をもらうのですが、非常に議論が展開しにくいと感じるのは、理屈としてはもっともな事を言っていて私も反対はできないのだけれども、でも政策的な答えがないという議論が多いこと。政策をやる人間はどこかで答えを出さなくてはならない。そこの一点があるかないかはものすごく重要だと思います。やらなくてはならない人は優先順位を決めます。ところがそれをやらなくていい人は割と無責任に議論を広げられる。ですから、批判する側もその優先順位の必要性を考えられるかどうかというのが、こういった多岐に渡る問題を解決する一つの鍵ではないかという気がします。 Q3: 私はヨーロッパに長くいたのですが、ヨーロッパの人々は冷戦やテロというものに常に直面していて、一般の市民でもそれに対する意識があったのですけれど、日本の政治家や専門家の人達には、「日本もヨーロッパや今回アメリカで起きたようなテロの対象になる可能性がある」という意識はあるのでしょうか。 豊永: あってしかるべきだと思うのですが、私はあまり感じません。逆に、「そうならないためにできるだけこの問題には触れない方がいい」という発想が強い。それは冷戦期の、「ソ連から攻撃を受けないために、できるだけ平和主義者だと言った方がいい」という発想と似ていますね。できるだけ蚊帳の外にいたいという、対岸の火事に止めておきたいという発想です。 質問者: そうすると、「国連の常任理事国になりたい」というこの10年間くらい日本政府・自民党が抱いてきたような目標と、反面ではそのような意識が一般的であるという事実とのギャップがこれからどのように埋まっていくと思われますか。 豊永: 全員が全員そういう意識を持っているわけではありませんし、これからどうなるかということについては若い世代がどういう意識を持ち始めているかということと関係すると思うのです。今、一昔前の冷戦期とは違って、日本の最大の関心事は国内の問題にあると思うのです。経済問題であるとか、或いは国内の法と秩序の問題かもしれませんし。従って、以前のように安全保障に関する軸でアラインメントが決まってしまうような状況ではなくなってきているという感じがします。そういう意味では、セキュリティへの関心がある意味で二次的なものになってきていて、以前に比べれば原理主義的ではない方向に向かっていると思うので、政治家や政策形成者が発するメッセージ次第で柔軟にアラインメントが形成されていく可能性はあるのではないかと思います。 渡部: 専門家と専門家でない人とのギャップというのは常にあるわけで、そのギャップを埋める努力が大切です。リーダーは人々を説得しなくてはならないし、違うことを考えている人はリーダーには自分達が考えているようにして欲しいという働きかけをする、そういう中で決まっていくのでしょう。ある程度意見が分かれているというのは健全なことです。ただ日本の失敗は、民主主義は、どうしても全員が納得していないと駄目だというようなイメージがあることです。政治にしても、どこから持ってきたか分からないような、全員が賛成するとか、決定が白か黒かに分かれているような、ピュアなモデルがイメージしている人がまだ多いようですが、デモクラシーというのはそういうモデルではないですから。常に反対者もいる、でもある程度は賛成者もいてそ合理的な議論によって決まっていく。日本で教えているアメリカの政治学者が、「そういう所を日本人はもっと学んだ方がいいのではないか」ということを話している時に、「それが足りないのは、日本では政治学科が法学部にあるからじゃないか」というジョークを語っていました。彼によると、法学部の教授会のポリティクスだと、誰かが一人「ノー」と言うと決まらないものらしいのです。 政治の世界でも似たようなことがあって、自民党の総務会というのが一番分かりやすいケースですが、そこでは全員一致でないとだめなのです。1人がだめだと言ったら通らない。そして総務会を通らないと自民党の政策は上がらないのです。ですから、今経済改革が難航している原因としてはそれが一つあって、総務会で発言力の大きい人がだめだと言ったら通らないのでなかなか前に進まなくて苦しんでいるという部分があるのです。そういった政治の基本というか決め方の問題についても日本ではどうも誤解が多くて、他の国がいいと言うわけではないけれども、日本はもう少し機能的な考え方をしなくてはならない時期に来ているのではないかと思います。 Q4: 政権交代とおっしゃいましたけれども、例えば新聞を見ていると、「自民党の税制調査会が○○だから決めた」というようなことが書かれている。政権交代が可能になるとして、これまで自民党の税調で決められたような政策が、例えば民主党が政権を握った時に現実的にどういう機能を通じて決まっていくのでしょうか。 渡部: 面白い点ですよね。要するに日本では政策決定過程があまり見えない。税調の話が出ましたが、実は税調は政府のものと自民党のものとあるのですが、「政府の税調は働かない」と言われているのです。自民党の税調が強いからです。これについては最近、読売かどこかが特集していましたね。自民党の税調が強過ぎて,税制を全然動かせないのです。そして政権交代したらどうなるかというのは読めないのです。なぜかというと非常に変則的に決まっていたからです。もちろんアメリカも政権によってすごく機能が変わるので、どこが力を持っているかはその都度政権を見ないと分からないのですが、例えば税金に関して言えば、アメリカは議会の委員会が力を持ってそれなりに機能しているからまだ見えやすい。日本においても、実は自民党の部会よりも衆議院の方が機能しているというのがあればいいのだけれども、日本の場合、族議員モデルと言って自民党の部会が強いという形になっているわけです。これが民主党になった時に民主党の部会が強くなるかどうかは分からないですね。上手く国会の衆議院とか参議院の委員会に力を持っていけるのであればそれは一つのパターンでしょうし、野党も「うちはそういうふうにする」と言えるかどうかも一つのポイントです。実は日本は、アメリカと違って委員会スタッフも非常に少ないし実質的な能力を持たない。これはひとつ考えられるべき問題かもしれません。アメリカの政府関係者が日本の政府機関で働く「マンスフィールド・フェロー」という研修から帰ってきた人が、その人は防衛関係でしたけれど、「やはり国会議員のスタッフを増やさないといけないのではないか」と言っていたのは印象的でした。 Q5. 政策形成に関してですけれども、先程の渡部さんの話で、国としての基本的な話ができていないという指摘がありました。それはなぜかというと、非常に単純化してしまうと、行政がダブルトラックだからだと思うのです。自民党と行政が決めているというダブルトラックで、実質的、最終的にどこが権限持っているのかというと、先程の税の話ですと自民党の税調、それから内閣で作った全ての法律は自民党の総務会を上がらないと法改正もできないし、賛成多数で可決することもできない仕組みになっている。結局全ての命運を握るのは自民党なわけですよね。だから結局政策形成が小ぶりになってしまっている。国としてどういう議論をすべきかというよりも自民党に受けるかどうか、そして自民党は政党ですから究極的には選挙で勝てるかどうかということが目的になるわけですから、どうしても国家の機能を議論する為の器としては小さいのではないかと思います。同じような議院内閣制でも、例えばイギリスでは政府の役人と党の政治家との接触は禁止されているわけです。内閣で作られた全ての法律はいきなり議会に行きます。ところが日本の場合は、多数派工作の一つの前提として自民党の中でまずそれを検討する、という日本的な根回しの過程があるので今のような形になってしまっているわけです。それが高度成長期には上手く機能したんでしょうけれども、今のようにものを速く決めなくてはならない時、そして今まで経験したことのないような構造改革に際しては、ダブルトラック方式はかなり限界がきているのではないかと思います。 また日本では様々な経験が生かされないですよね。テロの話にしても、サリンの事件があった。ではあれだけの事件の後どういう備えをしたかというと、いつの間にか立ち消えになってしまった。なぜそういう過去の経験というものを生かしてそれに備える政策形成を行おうという動きが出てこないのか非常に不思議に思うのですが、それについてはどう思われますか。 |
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渡部: ダブルトラックの話はまさにその通りですし私も感じている所で、補足として非常に分かりやすいと思います。ありがとうございます。経験が生かされないことについては、色々な説明があると思うのですけれども、一つはやはり政策を作る所に競争がないということ。これもダブルトラックに由来している部分もあるんですよね。役所が自分の所で失敗したと思ったことを洗い直して、「これは失敗でした」と言ってもう一度やれるかと言ったら、前任者を批判するのも大変ですし、任期が来たらどこに行くか分からないしで、非常に難しい。役所に限らず、一つの組織が一つのことを全て責任持ってきれいにできることなんてないですよね。やはりいくつかの所に機能が分かれていて、外から批判があって客観的に分析できるメカニズムがないとだめですね。アメリカをすごく理想化しているように聞こえるかもしれませんけれども、アメリカも常にひどい問題と取り組んできていて、その中でもアメリカは割とまともにやったなと思うのは、失敗した後にそれを正す為にはどうすべきかと必ず考えて、外部の人を任命したり外部の機関を作ったりしたことです。 |
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安全保障の例で言えば、アメリカの委員会のスタッフとか、CBO、Congressional
Budget Officeとかが拡充していくのは常に失敗した後なのです。ベトナム戦争というのは一番大きな例で、政府の情報に対して、特に議会側から文句が言えなかった。なぜかというと、よく知らないから。軍事の話は専門家でないと分かりませんから。そしてあれよあれよという間にどんどん戦線を拡大してしまったと。これはまずいということで、「議会にもう少し権限を持たせろ」ということと、「議会が内容を理解できるようなスタッフを入れろ」ということになった。そして一番大事なのは予算を見ることだから、議会にCBOというものを作って監視しろ、ということになったわけです。やはりそういう機能的なものを作れるかどうかですよね。そうなると二つやり方があって、政権交代してやるというのもそうだし、或いは中曽根首相も臨調でやったりしていましたけれど、内閣とか総理大臣に力があれば、外部の専門家を任命するというのも一つの手でしょう。要するにセオリーはないのですが、一つの同じ組織にずっといる人は自分の前任者や自分のことを悪く言えない構造になっているから、それを覆す組織を作れるかどうかということと、できれば同じ人が同じ所にずっといなくてもいいように、人材の流動化があればいいですよね。例えば財務省によるバブルの処理にしても、「何だかんだいってもやはり大蔵省が悪いんじゃないか」と言われてしまうからなかなか思い切ったこともできない部分があると思うのです。けれど、人材にある程度動きがあれば、自分の所に関して「失敗した」とも言えるし、情報も公開できますから、その辺りのシステムの構築が大切なのではないでしょうか。 |
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Q.6 安全保障と切っても切り離せないのが憲法9条の問題だと思うのですが、今回の一連の動きの中では、とりあえず前に進まなくてはならないから9条の議論をどうするかという点があまり出ていなかったように私は感じています。内閣法制局が決めていた憲法解釈は変えられたと言っていいのか、それとも議論が詰められていないまま今回は通ってしまったのか、ということが一つ。またもしうやむやだったということであれば、今後よく分からないままに解釈が広がっていった場合にどう解決をつけるべきだと思われますか。 渡部: おっしゃられた通りうやむやです、現時点では。本当にうやむやなんだけれど、そうしないと前に行けない状況であったことも間違いないですね。ですから今非常に危険な状態です。何が危険かというと、日本が暴走するとかそういう話ではなくて、例えば今度PKO法を改正して、落ち着いたらアフガニスタンに自衛隊を送ろうとしていますが、こういう時に問題が出てくると思うのです。武器の制限をしたり、或いは今回イージス艦を送るか否かで揉めて送っていないですね。これも、あまり力が強すぎると集団的自衛権の問題に抵触したり過剰に攻撃的になるのではないかという話が根底にあるからです。もう既にまずい結果はたくさん出ているのですけれど、私が個人的に一番心配しているのは、9条をきちんと解釈しないと、派遣された個々人の自衛官に自分の身を守るための保障を与えられないという非常にまずいことになるという点。何がまずいかといえば、命を賭けてやってもらっている人に充分な保護を与えないで送るということです。しかももし何か間違いがあった場合に、前向きの議論にならないで、どちらかというと昔のように後ろ向きの議論になる可能性がある。ですから、今問題を抱えたままであるということは指摘しなくてはならないと思います。けれど、ある程度スキップしないと出られないような状況であったことは確かで、もし以前のような9条をめぐる論争をしていたら今は全く前に進んでいないですよね。ですから、そういう意味ではある程度覚悟のスキップだったとは思うのですけれども、ただ覚悟を持ってスキップして前に進めた以上は、もう一回早い段階で見直さないとならない。私は、集団的自衛権を行使できるというのは早く誰かが言うべきだと思う。誰かでなく、小泉さんが言うべきだと思っています。実はもう議論はそれなりにできているのです。国会の中に憲法調査会がありますし。これはそろそろきちんと問いかけないとだめであって、その辺りは本当に詰めなくてはならないと思います。 豊永: 補足ですけれども、データによると、今回の自衛隊の海外派兵に賛成か反対かという意見の分布と、憲法9条の改正に賛成か否かという意見の分布が必ずしも重なっていないのです。憲法9条の改正には反対だという人達の間にも海外派兵に賛成する人がたくさんいて、逆に改正すべきだという人達の中にも派兵に反対しているがたくさんいる、という感じです。ですから、今回の問題をもって改憲論に飛びつくのは性急ではないかという視点も提起されています。一昨日ウッドロー・ウィルソン・センターで一緒に仕事をさせて頂いた早稲田大学の田中愛治先生は、憲法改正には反対だけれども海外派遣には賛成するという方向性が、比較的説得力、合理性を持った方向性として成り立ち得るのではないかということをおっしゃっていました。ただその場合にも、もちろん解釈をどうするかということが問題になりますよね。その状況を想定したとして非常に気になるのが、日本において果たしてConstitutionalism、立憲政治・主義とは何なのかという問題です。憲法がある種のドグマなのか、それとも解釈の歴史的変遷の余地を残すものとして存在しているのか、その辺りのコンセンサスがいまいちありませんよね。ですから突き詰めていくと、結局日本にとって憲法とは何なのか、我々は立憲政治というものをどう捉えていくのかということにまで踏み込むような論点なのかなという気がしました。解釈でどこまでできるのか、できる幅はかなり想定し得る余地はあるのかもしれないという印象を持っています。 渡部: 日本人の法律に対する向き合い方が問われているような気がします。例えば、日本では選挙運動での戸別訪問を認めていないということになっていますね。私は選挙運動をしたことがありますから分かりますけれど、戸別訪問禁止というのは有名無実化しているのです。戸別訪問をしているか否かの判断基準としてよく言われているのは、笑ってしまいますけれど、「一軒毎に飛ばせ」というものです。警察も結構いい加減ですが、そういう余地がないと逆にキャンペーンにならないですから。アメリカの政治学者が不思議がるのは、なぜ選挙で戸別訪問がだめなのかということです。日本でも解禁しようという動きがあったのですが結局そうはならなかった。そういう曖昧な解釈を残していることについてはいい部分と悪い部分とがあって、一番悪い例が何かというと、よく使われる「刺される」という言葉です。選挙運動で反対派の所に行って戸別訪問した人が警察に言う。警察も言われると仕方なくやる。1回目は「気をつけて下さいよ」くらいで済みますが、2回目からは結構、警察で事情聴取されたりする。非常に基準がいい加減なわけです。そうするとお互いに戦略として使うのかもしれないけれど、それは法治国家としてはあまりにまずいのではないかということがひとつですね。 それから、私は歯医者だったからわかりますけど、日本では健康保険の点数と実際の診療にはかなり矛盾があるのです。例えば医者や歯医者が本当にそれに従ってやっていたら営業的には成り立たないものもあるのです。だからみんな厳密にいえば不正請求といわれるようなことをうまくマネージメントする。それをやっていても生き残れるのはどうしてかというと、これは日本の暗部なのですけれども、保険組合や歯科医師会にちゃんと入って厚生省の人とそれなりに上手くやっていればそんなにひどいことにはならないのです。逆に一匹狼でやっていると潰されるのですね。1年に2回も調査が入ったりして。日本には55年体制ができていましたが、共産党系にはちゃんと共産系の医療グループがあって、それはそれで守られるようになっている。日本全国そういうものだらけです。私はたまたま選挙運動と歯医者の世界だけは知っていますけれど、おそらくそういうことは日本に一杯あるでしょう。そこの所の乖離をどうするかというのは憲法も同じではないですか。つまり日常生活でそうやって法律と現実の矛盾の中で生きている人達が、憲法の話にどこまで向き合えるかというのは結構きつい話ではないかなと思います。 |
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| つづきはこちら 前のページへ戻る 文責 木下史子氏 (ありがとうございました) |
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