■ 『政策海外ネットワーク"PRANJ"レポート』 第26回目
「テロ報道と各国のメディア教育」
□菅谷明子: ジャーナリスト
「今あなたが知っていることをどうやって知ったのか考えてみてください。そうす
れば、メディアがどれほど私たちにインパクトをもたらしているのかが、よくわかり
ますよ」 アメリカの大学で、メディア・リテラシーの講座を受講していたときに、担当教授
が授業の冒頭で語ったこんな言葉を折に触れて思い出す。最近では、同時多発テロ事
件。私たちは事件について実にいろいろなことを知っているが、そのほとんどは、メ
ディアが伝えたことをもとにしたものではないだろうか。
事件発生以来、私がここ数年テーマとして取材を続けてきた、メディアと主体的に
かかわり、また多様で豊かなものの見方や価値観を反映させたメディア社会を実現さ
せるための力を育む「メディア・リテラシー」の取り組みがいかに重要であるのかを
改めて感じるこのごろである。本レポートでは、各国の教育現場を中心に行われてい
る、メディア・リテラシーの学習についてご紹介したい。
* * *
私たちは、まさに情報化時代を生きている。NHK国民生活調査によれば、日本人の
テレビ視聴時間の平均は一日約三時間半。仮に七五年間このペースで過ごせば、その
うちの十年以上をテレビだけ見て過ごすことになる。それに新聞・雑誌、映画、ラジ
オやインターネットのホームページをチェックする時間などを加えれば、私たちは人
生の大半をメディアから情報を得て過ごしているといっても過言ではない。
メディアのおかげで国内の動きはもとより、地球の裏側で起こった9月11日の世界
貿易センターを狙ったテロ事件さえも、ライブ中継でリアルタイムに「目撃」するこ
ともできるし、数世紀前に起こった歴史上の出来事さえ臨場感たっぷりに知ることが
できる。メディアが伝える情報は、世の中の動きを理解する上での中心的な役割を果
たし、私たちの考え方や価値観の形成、物や行動を選択する上でもますます大きな力
を発揮するようになっている。情報社会が加速するなか、私たちは自ら体験したこと
よりも、メディアに媒介された情報をもとに物事を理解しているとも言えるのだ。
ところが、メディアが我々の日常にこれほど深く浸透しているにもかかわらず、メ
ディアが伝える情報がどのような性質を持ち、どんなプロセスを経て送り出されてい
るのかといった基本的なことさえ、実はほとんど知られていないのではないだろう
か。私は、現代社会に空気のように漂うメディアを「可視化」する必要性を痛感する
なかで、メディア・リテラシーという試みに出会い、ここ数年にわたって実践が盛ん
なイギリス、カナダ、アメリカの取り組みを中心に取材を行ってきた。(拙著「メ
ディア・リテラシー」(岩波新書)参照)
■ニュースが伝えるリアリティとは
はじめて耳にされる方も多いと思うが、メディア・リテラシーとは、メディアの特
性や社会的な意味を理解し、情報を主体的に読み解き、メディアを通して自らの考え
を表現し、多様なメディア社会の実現に向けて、メディアと積極的にかかわっていく
力のことだ。リテラシーとは、「読み書きする力」を意味するから、メディア・リテ
ラシーはメディア時代の読み書き能力ということもできる。欧米をはじめとした各国
では、メディアを理解することが情報化時代に不可欠だとの認識から、教育現場や市
民活動などに取り入れており、メディアの商業化や多メディア化が進むなか世界的に
もますます関心が高まっている。
メディア・リテラシーのポイントのひとつは、メディアが送り出す情報は現実その
ものではなく、『送り手の観点から捉えられたものの見方だ』という点にある。
ニュース報道を例にとってみよう。ニュースは、私たちが政治・経済の動きや海外の
動向をチェックする上で重要な役割を果たしているが、もちろんそこで取り上げられ
ているのは、社会をそのまま鏡のように映し出したものではない。ニュースといえど
も当然ながら、どんなテーマをどんな視点から取り上げ、誰に取材し、コメントのど
んな部分をどう使って、どのように構成するのかで、その見え方は変わってくる。
「事実」を切り取るためには常に主観が必要であり、何かを伝えるということは、裏
を返せば何かを伝えないことでもある。メディアが伝える情報は、取捨選択の連続に
よって現実を再構成した恣意的なものであり、特別の意図がなくても送り手の思惑や
価値判断が入らざるを得ないのだ。
こうしたメディアの性質を、私自身が実感することも少なくない。今年の春に約6
年のアメリカ生活を終えて日本に引っ越してきたが、とりわけ米国滞在中には、メ
ディアとそれを受け取る側の認識のギャップについて考えさせられることが多かっ
た。たとえば、日本から訪ねていらっしゃる方々と話をしていると、日本にはアメリ
カの情報がこれほど溢れているのに、アメリカの基本的なことが意外に知られていな
いことや、誤解がいかに多いのかを痛感した。考えてみれば、日本で伝えられるのは
一部の政治の動きや、事件・事故などの惨事、あるいは華やかなサクセスストーリー
などいずれも極端な例が多く、一般のアメリカ人が普通に暮らしていることは当然な
がら「ニュース」にはならない。また、アメリカの一部の現象が、まるで全米規模で
起こっているように思われているのにも、驚くことも多かった。
今回の同時多発テロ報道も同じこと。私たちはメディアを通して、数多くの情報を
得ているが、それらはあくまでもメディアの送り手の目を通して語られた、事実の断
片でしかない。臨場感たっぷりのライブ中継を目にすることは、それがカメラを通し
たものであることを忘れさせ、あたかも自分がその場に立ち会っているかのように錯
覚してしまうが、もちろんそれもカメラのフレームに切り取られたものであり、切り
取り方や編集のしかたが違えば同じ事実も違って見えるかも知れない。
私たちにとって必要なことは、どんなことがどんな立場から、どんな情報源を使っ
て報道され、その理由は何なのか、などメディアで伝えられていることを積極的に読
み解くことだ。それと同時に、メディアに欠けている視点について考えたり、メディ
アはどんな人たちの声をより多く取り上げ、どんな声を排除しているのかにも注意を
払い、できる限り多様なメディアから多様な情報を収集し、加えて自分の考えなどを
積極的にメディアに反映させていくことだ。
■メディアの舞台裏を分析
それでは各国では、メディア・リテラシーの学習が、どのように実践されているの
だろうか。ニューヨークの高校を訪ねた時には、テレビニュースの街頭インタビュー
を分析し、番組で紹介された人の意見が世の中の典型的な例なのか、またボツになっ
て使われなかったものがあれば、それはどんなもので、その理由は何かを考えてい
た。さらに、インタビューされた人や専門家のコメントを分析することで、作り手が
どんな『意見』を選ぶかで世の中の『事実』も変わってみえることを話し合ってい
た。
報道では、関係者や専門家の意見を交えて事件や出来事を説明することも多いが、
情報源に注目しそこに登場する人が、『当事者』なのか、『賛成者』なのか、『反対
者』なのかをみていけば、伝えられた情報が少なくともどんな視点から切り取られた
かがわかる。このように、制作過程における取捨選択や編集機能が理解できれば、メ
ディアが伝えていることは世の中のほんの一部であり、それ以外にも様々な出来事が
存在し多様なもの解釈の仕方が可能になることがわかるし、情報を相対化してみるこ
ともできるというわけだ。
また、テレビコマーシャル(CM)も、短いながらも強烈なビジュアルで表現された
インパクトのあるメッセージだが、ロンドンの小学校ではCMも授業の教材だった。
(アメリカの例になってしまうが、75年間、一日三時間ずつテレビを見れば、合計二
百万本以上のCMを見ることになるとのデータもある。)授業では、CMの性質を理解し
た上で、『女の子らしさ』『家族のあり方』といったよく使われるイメージが、必ず
しも現実社会を反映したものではなく、またこうした事例が『典型的』で『正しい』
とは限らないことを考えていた。CMの芸術性を理解するとともに、商品を売る目的で
作られたメッセージに、どんな意味や価値観がこめられているのかを学習するのだ。
メディアの経済的な側面も分析の対象になる。民間放送局はコマーシャルの時間枠
を企業に売ることで成り立つビジネスであり、企業がターゲットにする消費者に向け
て効果的にCMを流せるような番組を作る必要が出てくることも学ぶ。さらに、企業広
告がメディア企業の収入の大半を占めることを考えれば、広告主を批判しにくい構造
があることも理解させる。
それに加えて視聴率や発行部数を伸ばすためには、センセーショナルでインパクト
のあるものがこぞって伝えられがちであることを見ていくこともある。最近では、イ
ンターネットの情報を読み解くことも重要になってきた。無料でみられるホームペー
ジは誰が何を目的に立ち上げ、どんな経済基盤の上に成り立っているのかを考えてみ
ることも取り入れられている。
■市民のメディア表現の場を
メディア・リテラシーの実践を取材することは、私自身がメディアについて学ぶプ
ロセスそのものでもあった。各国で生徒たちと一緒に、映画のシーンを繰り返し見な
がら、カメラアングルや音声効果について学んだり、実際にカメラを担いでビデオ作
品を作ってみることで、映像の見方がまるで変わったし、マーケティング戦略やスポ
ンサーの影響力について考えてみることも、メディアの仕組みを知り社会を理解する
上で大いに役立った。これまで、よく見えていなかったメディアが、『見える』よう
になったのだ。
メディア・リテラシーを理解するためには、実際にメディアを使ってコミュニケー
ションを図ってみることが近道になる。自ら情報を発信してみれば、メディアが映し
出す世界と現実の世界の違いを理解し、世の中の複雑さとメディアでそれをすべて映
すことができないジレンマを体験できる。そして何より、メディアを使って表現する
ことがいかに難しいかを実感し、それを踏まえつつ、メディアを使って何ができるの
かを、建設的に考えていくことができる。
現在、メディアの送り手は極めて少数の「プロ」の手に委ねられているが、メディ
ア社会に生きる私たちは、それぞれのメディアの特性を理解し、我々自身が情報社会
をデザインしていかなければならない。最近では、日本でもメディア・リテラシーに
対する関心が急速に高まっており、学校教育や生涯教育、またNPOの活動に取り入れ
る動きもある。こうしたメディア・リテラシーの実践を推し進めていくためには、メ
ディア側の協力が不可欠になる。これまで、情報が作られる過程はブラックボックス
化されており、視聴者や読者がその舞台裏を知ることはほとんど不可能であったが、
それをオープンにすることはできないものだろうか。メディアに携わる人たちが教育
現場や市民講座に出向いて話をしたり、その逆にメディアの現場に市民を公開するな
どの交流があってもよい。また、公共図書館や社会教育施設などが、講座を催した
り、必要な機材を揃えるなどして支援活動を行うほか、パブリックアクセス・チャン
ネルのような市民が自由に番組を放送できるような新たなインフラの存在も不可欠に
なるだろう。
それとは別にジャーナリズムのあり方を再検討してみることも必要だ。日本の報道
では、情報源が明確にされないことも少なくないが、専門家や大学教授などのコメン
トが引用される場合、単なる肩書きだけでなく、どんな『立場』を取っている人なの
か、なぜその人たちのコメントに価値があるのか、また、そもそもなぜ取り上げた
テーマが『ニュース』なのか、などの「説明」も合わせて報道してはどうだろう。そ
れに加えて、より多様な情報源を使って世の中を多角的に語るようになれば、わかり
にくいことも確かだが、少なくとも物事にはいろいろな見方があることがわかる。番
組や記事で使われなかった素材をインターネットに載せることや、同じ材料を使って
違う視点から編集し直した二つのバージョンのニュース番組があっても良いだろう。
■メディア社会をデザインする
言うまでもないが、メディア・リテラシーは、現状のメディアのあり方を単に批判
するにとどまるものではない。その究極的な目標は、既存のメディアにとらわれずに
新しい表現方法や様々なタイプのメディアそのものを生み出すことにある。メディア
社会はメディアの専門家だけが作るものではない。政治家が政治を独占するのではな
く、市民の積極的な参加がより民主的な社会を作っていくのと同じことである。その
意味からも、多様で豊かなメディア社会が実現するかどうかは、メディアを理解し、
新たなメディアのあり方を主体的にデザインできる、前向きで創造力溢れるメディア
・リテラシーを身に付けた市民の存在にかかっているのではないだろうか。
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