| ■ 『政策海外ネットワーク "PRANJ"レポート』 第8回目 「国際開発銀行を通しての日本の開発援助政策」 □ 松本千賀子 :IAB 米州開発銀行 上級財務官 日本が公式にODAを使って行っている国際開発援助には大きく分けて、二国間で行われる援助と、国際組織を通して間接的に行われる多国間援助の2種類がある。国際開発銀行を通しての援助は後者に属するもので、開発銀行にも沢山あるが主なものとして、世界銀行、アジア開発銀行、私の勤務する米州開発銀行、欧州復興開発銀行、アフリカ開発銀行がある。財務省発行の数字によると、ほぼ平均してODAの20%が多国間援助に向けられている。日本は援助大国であり1997年以来、日本のODAはほぼ世界一のレベルを記録しており、国際開発銀行における日本の出資率も非常に大きなものだ。世界銀行では、日本はアメリカにつぐ第2の出資国であり、アジア開発銀行ではアメリカと並んで最大の出資国、米州開発銀行では、第6番目に位置する(域外加盟国中では、ヨーロッパのどの国よりも大きい最大の出資国)。 国際開発銀行を通しての援助というと、政治的に中立な立場からの援助というイメージを持っている方が多いのではないだろうか。私も、理想に燃え現実を知らないナイーブな大学生のときには、そのように思っていたが、実際には国際組織は「国際政治の修羅場」のように見える。理事会が国際開発銀行での業務を決定し,そのガイドラインを元に事務局(私のような銀行スタッフ)が日常業務の履行にあったている。 理事会を構成するのは、各加盟国の代表であり、彼らは自国の利益を代表して理事会での政治交渉にあたる。それに対して、我々のようの事務局スタッフは、自らの国籍を超えて中立的な立場から業務を遂行している。国内の組織に例えて言うならば、理事会は各地域や利益団体を代表する議員によって構成される国会に相当し、事務局は行政府に相当する。事務局は「一応」中立的な立場から援助政策や融資案件を考案し理事会での審議に載せるのであるが、最終決定は理事会での各国代表の政治交渉で決まる。よって、アウトプットとして出てくるものは、その時々の国際政治交渉でのダイナミックを強く反映したものとなる。 それでは、国際開発援助政策をめぐっての日本の政治行動や政策は、このような政治的な国際開発銀行の場からはどう見えるのだろうか。(以下の考察は、米州開発銀行での私の勤務経験が主な基盤となっているので、日本の影響力が強いとされるアジア開銀等には当てはまらないと思う。)結論から言うと、
前者の点について、議論を単純にする為にあえて極論的に言うと、アメリカの場合、自国の出資金に対してどれだけの政治的、経済的効用がアメリカに持たされるのかという観点から開発援助の政策、戦略にアプローチしているようだ。1ドルを開発途上国に投資したなら、そこから何ドルの政治的、経済的メリットが得られるのか。そしてアメリカの政治、経済政策に有利に影響力を行使できるのであれば、国際開発銀行にもそれなりの出資をするという態度である。よって後者の点、アカウンタビリティについてもアメリカは開発銀行に対して非常に厳しい態度で対応している。ヨーロッパの場合は、自国の経済、政治的利害もさる事ながら、それに加えて「人道主義的」な立場から多国間援助を考えているようだ。開発途上国での貧困の撲滅、最貧国に対する援助に重点を置いており、開発銀行を通しての援助もそのような分野に力を注ぐべきであるという観点から、交渉にあたってくるように見うけられる。それに対して日本は何が目的で開発援助をしているのか、更には、国際開発銀行という政治的道具を使って何を達成しようとしているのかが、よく見えてこない。 国際開発銀行を企業的に見ると、加盟国は銀行の株主であるが実際の日常業務には携わらず、業務の履行は経営陣であるところの事務局に委託しているわけである。アカウンタビリティの追求というのは、主資金を出した株主(加盟国)の利益を最大限にするよう経営陣(事務局)が実際の業務を履行しているかどうか、株主側が厳しく経営陣に業務履行の責任を追及するということである。 アメリカもヨーロッパも開発援助に対する哲学あるいは目的が明確になっているので、自ずと後者の点、アカウンタビリティの追求にも厳しくなる。事務局側からすると、アメリカやヨーロッパは「うるさい」のだが、反対に日本はふんだんに資金は出してくれるが、アカウンタビリティの追求が弱いので「対応が楽だ」ということになる。事務局スタッフとしては日本の態度は有り難いが、日本で税金を払う日本人としては、巨額の出資金に見合ったレベルでもっと日本の政策や国家利益というものが国際開発銀行の政策や業務に反映されるべきだはないかと、疑問に思うことも多々ある。日本によるアカウンタビリティの追求の弱さには、責任追及を明確な形でしないという文化的な要素もあるのかもしれないが、第一の点、日本の政策や政治行動が外からは明らかに理解しにくいことと密接な関係があるのではないか。 日本には国家のビジョンに基づいた国際援助政策があるのだろうか。日本には92年に閣議決定された「政府開発援助大綱」があり、その中で「人道主義」「世界平和」「民主主義」が基本理念として提示されている。世界的視野に立った人道主義的、平和主義的理念が前面に打ち出されているが、それが必ずしも海外の現場や国際機関において、「日本の援助は世界平和と民主主義の推進、貧困の撲滅に貢献する為のものである」と評価されないのは何故か。政策立案をし決定された政策の履行を担当している日本の各省庁が、援助理念に基づいた政策の履行をしてないからだと言えるかもしれない。あるいは、日本の立法機関である国会が、援助大国であるにもかかわらず、またODAが国家予算に毎年組み込まれているにもかかわらず、これまで日本の国際援助に対しての議論をしっかりしてこなかったことに問題があるともいえるかもしれない。しかし、行政府にしても立法府にしても、ボトムラインは国民に対する公共サービスの提供者なのであるから、結局は明確な国際援助政策とその履行を要求しない国民に責任があると言えるのではないだろうか。国際援助活動に対する私たち国民の関心の薄さが原因の一方にあり、もう一方にはこのように国民の関心(利害)が薄い分野に国家の資産を配分し続けてきた、政治的行政的なミスマネージメントが原因としてあり、援助大国でありながら現場では戦略的援助政策が見えにくいという状況を作り出してきたのではないだろうか。 もう一点、国際開発銀行の場で日本の援助政策がよく見えないことの原因をあげてみたい。それは、コミュニケーションの問題であり、日本からの情報発信の弱さにあると思われる。国際政治の世界は、交渉タクティックスの修羅場であるし、国際社会がグローバル化すればするほどローコンテクストの世界になると思う。日本社会はハイコンテクストの社会で、一言言葉で表現した背後には例えば10の隠れた意味が込められている。情報の発信者も受信者も、言葉に表現されない部分の背後の意味を理解する能力が要求される。逆に言えば、1を話すだけで相手は10を解ってくれるという期待もある。それは、日本人間のコミュニケーションの背後に日本文化、常識という共通のコンテクストがあるからである。 しかし国際社会では共有される文化や常識のコンテクストが非常に薄いので、言葉で表現した部分しか相手には伝わらないということになる。私の経験では、「うるさく、繰り返し、声高に、自分の要求は何かを明確に」表現しなければ相手にメッセージが伝わらない、というのが国際社会であると思う。このようなコミュニケーションスタイルは、日本人の私には始めは耐え難い苦痛が伴ったのだけれども、国際社会でのサバイバルにはマストハブ(must-have)のスキルであると実感している。国際開発銀行での政治交渉も同様で、例え日本が様々な開発援助の分野で政策や方針を持っていたとしても、それを声だかに明確に発表し説明しなければ、「存在しない」ものと理解される。日本の外から見ていて、日本の援助政策がはっきりつかめない、あるいは開発援助をめぐる日本の政治行動が理解しにくい、というのは言葉での説明の部分(プレゼンテーション)が弱いからで、それにはローコンテクストの国際社会に、日本(日本人)はハイコンテクストのコミュニケーションスタイルで対応しているからではないかと思われる。 この場で上げた2つの問題点、日本国民の開発援助に対する関心の薄さと援助大国という現実の間にあるギャップ、そしてコミュニケーションの問題に対して何ができるのだろうか。第一の点に対しては、日本の開発援助の現実をメディアや教育機関を通して、開発援助に携わる人間がもっと幅広く国民に伝える事はできるのではないかと思う。国民の関心の薄さには、情報不足と開発援助を取り巻く政治行政の不透明さも原因としてあると考えられる。日本の国際援助の現場ではどのような人が働いているのが、どこで誰が政策を立案しているのが、どのような法律があるのが、一般には分からないことがほとんどである。これは援助政策のみに関わらず、日本の公共政策全般に言えることではないだろうか。 私の所属するPRANJも日本の公共政策に何等かの形で貢献することを目的に活動しているのであるが、活動指針の一つの大きな柱は、公共政策に関する情報の流通を高めることによって行政政治での政策決定過程の透明性(transparency)の向上に努める事である。国際援助政策に関しても同様で、もっと一般にわかりやすい形での情報の流通を高め、何がどこでどう行われているのか分からないという不透明性を少なくしてゆきたいと思う。そして最終的には、実際に日本国民が開発援助に何を求めているのか(援助大国にならないというのも一つの選択である)また日本の将来に向けての国家戦略としてどのように開発援助に対応するべきなのかということが国会等でもっと積極的に議論されるように持ってゆくことが理想ではないかと思われる。 第二のコミュニケーションについては、世界のグローバル化のトレンドから取り残されても、日本独自のコミュニケションスタイルを守りたいのか、あるいは日本文化(コミュニケーションスタイル)を柔軟に対応させることで積極的にグローバル化の過程に統合されてゆくことを選ぶのか(そして更には国際社会でのリーダシップをとる)という選択を日本は今問われているのではないだろうか。後者を選択するのであれば、国家レベル、地方自治のレベルで、コミュニーケーション、プレゼンテーションの訓練をする為の教育制度等の枠組みを作る投資をしてゆくことが必要に思われる。この教育投資は次世代に向けてだけでなく、キャリアトレーニングの一貫としても取り入れられるべきものと考える。また政治行政レベルでは人材の選択基準に、コミュニケーション能力も考慮し国際社会に通用するコミュニケーションスキルを身につけた人材を国際政治の場に送る努力をすることではないだろうか。最後に、国際開発援助は日本が戦後経済復興を終えてから積極的に始まったので、まだまだ若い分野であり業界である。しかし同時に、開発援助は国際政治経済と密接に関連する重要な分野でもある。これから将来にかけて、開発援助に関する政策議論が積極的に行われ、人材の育成にも努め、日本が名実ともに援助大国になることを願いたい。 Copyright(C)1999-2001 Policy Research & Analysis Network 許可無く転載することを禁じます。 |